建築を旅してplus

釧路市 編(Ⅰ) ①

反住器

 いまさらですが、安藤忠雄、渡辺豊和と共に関西の三奇才といわれた毛綱毅曠は釧路市出身の建築家で、北海道にも数多くの名建築を残しています。 

 毛綱にとって2作目となる「反住器」は母親のための住まいですが、1972年(昭和47年)に釧路市富士見に建設され、毛綱毅曠の名を一躍、建築界に知らしめたポスト・モダンの先駆け作品です。 

 一辺8 メートル、4 メートル、1.5 メートルの3 つのキューブが重なった入れ子構造が特徴となっています。 

 建物を眺めていると、近所の方から「反住器」についての熱心な解説を頂きました。市民の財産になっているのだなぁ~と実感した次第です。 

 

 毛綱毅曠は2001年に59 歳の生涯を終えています。 同年、道立釧路芸術館で行なわれた追悼展に、私も参加しましたが、渡辺豊和さん(建築家、現:京都造形芸術大学名誉教授)をはじめとした錚々たるメンバーの貴重なお話を聞くことができ、充実した1 日となりました。 

 その中で、「反住器」というネーミングについてのお話がありました。 

 お仲間の方々には、別名が知らされていたため、雑誌に掲載されたのを見て、驚いたそうです。詳細は割愛しますが、興味をそそられるネーミングであることは間違いありません。 

 

 そもそも「反住器」とは何かというと、毛綱毅曠は次のように語っています(語りの一部)。「反住器の住器とは、家屋、住居、覆屋という意味なのだが、あなたが、いわば什器から住器さらには集器という容器の群れの外と内に囲まれている近代的状況を、反問し、反芻し、そして反証する住宅が反住器なのです」と・・。 つまり、住むことを学ぶというハイデガー居住論のような世界がワクワク感を呼び起こしてくれます。 私にとっての毛綱毅曠作品の魅力は、その不思議な造形と、それについて語られる多彩なデザイン言語とが一体となって迫ってくる魅力なのです。もしかしたら、毛綱毅曠は稀代の芸術プロデューサーだったのかもしれません。

 

竣工 - 1972年(昭和47年) 

構造・規模 - 鉄筋コンクリート造3階建                   

所在地 - 釧路市富士見1-5-1

設計者 - 毛綱毅曠

釧路市 編 (Ⅰ)②

釧路市湿原展望台

 反住器に続き、毛綱毅曠の作品を取りあげます。 

 毛綱毅曠は「日高山脈を超えなければ本当の北海道に来たとはいえない」と豪語したといいますが、道東を旅すると何となく、そんな気になります。

 どこか、俗化されていない独自性を感じるからなのです。 

 そんなイメージ作りに、一連の毛綱作品(下欄参照)も一翼を担っているように思えるのですが・・。  

 

 釧路湿原は、釧路平野に位置する日本最大の湿原ですが、主要部はラムサール条約に登録されており、特別天然記念物タンチョウをはじめとした水鳥の繁殖や休息の地となっているなど、大変希少な動植物が生息していることでも有名です。 

 この釧路湿原を一望できるのが、1984年(昭和59年)にオープンした「釧路市湿原展望台」。釧路市中央部から北に11km程行った釧路湿原の西端に位置しています。 

 毛綱毅曠は、この建物のコンセプトについて、次のように語っています。「湿原を風水術をもってイメージすれば、天脈、地脈が交合した、天地の境のつかない形態として、これを「八字交叉形」と呼ぶ。この「八字交叉形」の中の大地の遺伝子といえる球形植物(ヤチボウズのこと)をモチーフとしたのが、この「釧路市湿原展望台」であるのだ」と・・。 

 また、この時期からか、毛綱は「記憶の建築」という表現を多用するようになりますが、この空間構成にも、それらは意識されています。 

 毛綱の言葉を借りれば、[この建築の空間構成は天、人、海の三層(空間軸)となっていて、それは、(天の記憶=三階部分)湿原を展望するパノラマ空間、(人の記憶=二階部分)展示空間、(海の記憶=一階部分)海底より、船底の竜骨を見上げるかのホール、の三層で、この三層を貫く吹抜空間こそ、「湿原の種子」と呼ばれる双曲線宇宙なのである。 

 この建築が建つ周囲の湿原とは「古事記」でいう「くらげなして漂う」、いまだ天地にならない状況、いわば神話的カオスのイメージにつながる。 

 それ故、この建物に内蔵された「湿原の種子」は原自然の記憶に回帰する胎内潜りの場と考えることができるのだ]と・・。  

 

 空間にスーパーインポーズされるデザイン言語の妙、私の毛綱作品の鑑賞術です。 

 なにより、これほど、おもいきった建築が実現しているということに感動です。

 

竣工 - 1984年(昭和59年) 

構造・規模 - 鉄筋コンクリート造2階建

所在地 - 釧路市北斗6−11

設計者 - 毛綱毅曠

受賞歴・指定等 - 日本建築学会賞

 

道東にある一連の毛綱作品・反住器(1972年)・弟子屈町屈斜路コタンアイヌ民俗資料館(1982年)・釧路市湿原展望台(1984年)・釧路市立博物館(1984年)・釧路市立東中学校(現・幣舞中学校)(1986年)・釧路キャッスルホテル(1987年)・釧路公立大学(1988年)・釧路フィッシャーマンズワーフMOO / EGG(1989年)・北海道釧路湖陵高等学校同窓会館(1990年)・NTT DoCoMo 釧路ビル(1998年)・ふくしま医院・釧路市(2000年)・白糠町立茶路小中学校(2002年)

釧路市 編(Ⅰ)③

旧渡辺虎蔵商店兼住宅 ─ 米町ふるさと館

 米町地区は釧路発生の地とされます。かつては多くの料亭や遊郭が建ち並び、釧路経済の中心として賑わっていました。石川啄木と芸妓小奴が恋仲になった舞台ともいわれます。 

 この米町という地名は、米屋が軒を連ねたことに由来するのだそうです。 

 さて、ここで紹介する「米町ふるさと館」のもとをただしますと、新潟県・佐渡出身の渡辺虎蔵氏が渡辺虎蔵商店兼住宅として使用していたもので、釧路市内に残される最古の木造民家(町家)になります。

 昭和24年には田村桂次氏の所有となり、平成元年には田村艶子氏から釧路市に寄贈されています。 

 「ふるさと創生事業」として後方に曳家・改修された後に、賑やかな時代の名残を今に伝える資料館(米町ふるさと館)として開館されました。  

 

 さて、建物を鑑賞しましょう。 外壁は白漆喰を塗り、正面の両端には防火壁・うだつを上げ、屋根は桟瓦葺きにするなど、防火への配慮が見られます。

 全体的には明治の商家の面影が残されています。 

 中に入ると、通りニワが背面までつながっています。欄間や明かり障子が健在で当時の生活様式を感じられるのが嬉しいですね。 

 当時の貴重な資料や生活様式について、案内の方が一生懸命に説明してくださいました。建築を旅してよかったなぁ~と感じる瞬間でもあります。 

 隣には米町公園があり、釧路市を一望できます。また、公園内にある一風変わったトイレの外観は明治・大正期にあった劇場「共楽座」をモチーフにしているといいますが、この地に立てば歴史性を伝えたくなる感覚は分かります。ゲニウス・ロキが働いているのかもしれませんね。

 

竣工 ─ 1900年(明治33年)

構造・規模 ─ 木造2階建・床面積151.10㎡

所在地 ─ 釧路市米町1丁目1番21号

施工者 ─ 工藤 恒吉(棟梁)

釧路市 編(Ⅰ) ④

釧路市立博物館

 釧路の歴史的建造物は意外なことに、ほとんど保存されていません。  

 私にとって釧路を代表する記念碑的建築物は、「釧路市立博物館」ということになりましょうか。(広義には一連の毛綱建築群が私にとっての、釧路地方における記念碑的建築物です)  

 多くのパンフレットには、この建物の特徴的な形態を「タンチョウが両翼をひろげた形のイメージ」と紹介されていますが、毛綱毅曠自身の言葉を引用すると以下のようになります。 「釧路市立博物館は春採湖畔の丘陵に位置しているが、この地形の潜在的形態構造は風水術でいうところの、金の鳥が羽を展げ、卵を抱いている形、すなわち金鶏展翅形であり、この地勢を建築形態に写し取ったのが、釧路市立博物館である。さらに、釧路市のシンボルが丹頂鶴であることを考え合わせれば、金鶏展翅形ならぬ丹頂展翅形とでもいえよう」と、ありますが、私にとっては、この表現の方が、しっくりきます。  

 次にゾーニングです。正面玄関から右側が収蔵系、左側が展示系の対比的構成になっており、右側の吹抜空間を下降のシンボリズム、左側の二重螺旋階段を上昇のシンボリズムとし、空間の対位法的構成の象徴だとしています。  

 さらに空間構成ですが、内部空間が「天、人、地」の三層構造になっていることが特徴です。3階(三層)をアイヌの神々や祖先の「天の記憶」、2階(二層)を「産業や水産、都市といった人々の記憶」、1階(一層)を大地の記憶とし、この三層の吹抜を貫く二重螺旋階段は過去、現在、未来をつなぐ、いわば巡礼路であり、博物館を記憶の建築と呼ぶのも、この二重螺旋こそが人類の遺伝子DNA(二重螺旋)と共鳴する装置と見立てているからだとしています。 

 私には、何やら、面白く、わかりやすく表現されているように思えるのですが・・。

 

竣工 - 1983年(昭和58年)

構造・規模 - SRC造4階建

所在地 - 釧路市春湖台1-7

設計者 - 毛綱毅曠

受賞歴・指定等 - 日本建築学会賞、通産大臣によるディスプレイ産業大賞(博物館内の展示)

釧路市 編(Ⅰ) ⑤

旧釧路新聞社社屋 ─ 港文館

 港文館(こうぶんかん)は、明治41年に建設された旧釧路新聞社社屋を復元した建物です。

 

 旧釧路新聞社(現北海道新聞社)社屋は、1908年(明治41年)に竣工し、北大通に移転した後、1965年(昭和40年)に解体されています。

 石川啄木は、竣工年1月21日に記者として、この社屋に赴任してきました。編集長格の業務を任されていましたが、わずか76日間の在籍期間をもって、東京へと旅立ってしまいました。

 

 解体から28年を経た1993年(平成5年)5月31日に、この釧路市大町2丁目(釧路フィッシャーマンズワーフの対岸)に復元されたのが、この港文館です。

 旧釧路新聞社の竣工当時は、東北海道唯一の煉瓦造りだったそうです。

 啄木が中学の時、1学年上の友人だった「金田一京助」宛への手紙にも「小生着釧の翌日、社は今回新築の煉瓦造りの小さいけれど気持ちよき建築へ移転仕候…」と紹介されています。

 なお、港文館の1階は、喫茶室・休憩所・談話室・資料展示、2階は石川啄木の資料・談話室等となっています。

 76日間というのは歴史などと言う表現とは無縁ですが、この施設は26年間という短い人生を駆け抜けた天才の足跡・歴史性を感じさせてくれます。

 私には釧路という風土が、そんな感性を増幅させてくれるような気がするのですが・・。

 

竣工 - 1993年(平成5年)─ 復元された建物 

構造・規模 - 鉄筋コンクリート造ブロック積一部木造2階建 床面積:135.475㎡

所在地 - 釧路市大町2丁目1-12

釧路市 編(Ⅰ) ➅

浪花町16番倉庫をはじめとした煉瓦倉庫群

  釧路市中心部の浪花町5丁目界隈には、明治時代に建てられた煉瓦倉庫が群を成しています。

 かつて、木材や農産物の集散基地として賑わいを見せた空間に、釧路の歴史性を垣間見ることができます。

 中でも「浪花町十六番倉庫」と呼ばれる建物は、釧路市出身の作家:原田康子の曾祖父が所有していたことや、文化・芸術活動拠点として活用されてきたことなどから、多くの方々に知られています。

 私のHPにも紹介してきましたが、道内各地にも同様の倉庫群が存在しており、保存活用されている多くの事例があります。

 この倉庫(群)も魅力ある釧路のまちづくりへの一翼を担ってほしいものです。

 なお、上の写真の奥に見られる、4つのドーマーの付いた煉瓦倉庫が「浪花町十六番倉庫」です。

 下記も「浪花町十六番倉庫」のデータです。

 

旧名称 - 三上運送合資会社

竣工 - 1910年(明治43年)頃

構造・規模 -木骨煉瓦造平屋

所在地 - 釧路市浪花町5丁目5番地 

受賞歴・指定等 - 釧路市都市景観賞 

釧路市 編 ⑦(Ⅰ)

釧路湖陵高等学校「同窓会ギャラリー」

 釧路湖陵高等学校は道東屈指の名門校です。

 各界に多くの人材を輩出していますが、設計者:毛綱毅曠の出身校でもあります。

 

 この建物は学校グラウンドに建設された小ギャラリーです。

 敷地の傾斜した一画にあり、アプローチのブリッジからアクセスできるようになっています。

 傾斜した下見板の外壁、そこから突き出た船の櫂に見立てた方立などによって、「ノアの方舟」のイメージが構成されています。

 

竣工:1996年(平成8年) 

所在地:釧路市緑ヶ岡3-1-31

設計者:毛綱毅曠建築事務所

施工者:東海・村井・坂野JV

釧路市 編(Ⅰ) ⑧

ろばた煉瓦

 弊舞橋架設や官設鉄道開通に伴い、物流拠点として釧路川沿岸には、釧路市編⑥で紹介したような煉瓦倉庫群などが建設され始めます。この、旧ヤマイチ本山商店倉庫もその一つで、塩・米・雑穀などの保存に利用されていました。

 1999年(平成11年)には、釧路の老舗水産会社であるマルア阿部商店が、この建物を活用保存して、「ろばた煉瓦」という炭火焼レストランを出店しました。

 

 炉端焼き発祥の地ともいわれる釧路にあって、新鮮な魚介類を歴史ある煉瓦蔵でいただくのも味わい深く、多くの市民や観光客が訪れています。

 

竣工 : 明治末~大正

構造 :煉瓦造平屋建て

所在地 : 釧路市錦町3丁目5-3

受賞歴・指定等:釧路市都市景観賞

旧名称:ヤマイチ本山商店倉庫

釧路市 編(Ⅰ) ⑨

釧路フイッシャーマンズワーフMOO&EGG

 この建物は、北洋漁業発祥の地とされる旧錦町市場跡地に建つ複合施設です。

 名前はサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフに由来し、MOOはMarine Our Oasisの略です。

 

 客船をイメージしたといわれ、今や釧路市の象徴となっている建物ですが、ファサードにさまざまな要素をアッサンブラージュさせたポストモダン建築です。

 私個人としては、コンセプト的に「石井和紘」の「同世代の橋」を連想してしまいます。

 MOOの隣(幤舞橋側)に位置し、全面ガラス張りの卵形の建物がEGGです。

 この施設は釧路フィッシャーマンズワーフの中核施設として、MOOとともに平成元年にオープンしました。

 『いつも緑の園:エバー・グリーン・ガーデン』の頭文字を取った略で、1年を通じて緑に覆われ市民の憩いの場であり、観光客にも親しまれる植物園です。

 

竣工:1989年(平成元年) 

構造・規模:鉄筋コンクリート造一部鉄骨造、鉄骨造一部鉄筋コンクリート造

所在地:釧路市錦町2丁目

設計者:北海道日建設計・毛綱毅曠建築事務所

施工者:フジタ・鹿島ほかJV

受賞歴・指定等: 平成20年度 照明普及賞 北海道優秀照明施設賞

釧路市 編(Ⅰ) ⑩

釧路市立幣舞中学校(旧東中学校)

 この建物は春採湖周辺、文教ゾーンの一角に立つ「ポストモダン」な中学校です。

 旧東中学校は設計者:毛綱毅曠の母校でしたが、平成16年4月1日に、釧路市立弥生中学校と釧路市立東中学校が統合して、「釧路市立幣舞中学校」となりました。

 周辺には、博物館、埋蔵文化センター、小・中・高・大の各学校や病院、その他の公的施設が集約しており、良好な教育・生活環境が形成されています。

 

 さて、建物に話を転じます。

 特徴的なのは、何と言っても中庭に架かる半径15m・7本の巨大アーチ(当初設計では10本だったそうです)ですが、間の間(あいのま)─八谷邸:昭和55年で同様のミニチュアデザインが使われています。

 さらに3段にセットバックした壁面、大階段室に架かる半ドーム(毛綱毅曠お得意のデザインです)、さらに曲がりくねった廊下や内部のステンドガラスなど見所は多いようです。

 

竣工:1986年(昭和61年) 

構造・規模:鉄筋コンクリート造3階建

所在地:釧路市春湖台1番3号

設計者:毛綱毅曠建築事務所・釧路建築設計研究所

施工者:葵建設・丸豊石田工務店 ほか