建築を旅してplus

函館市 編(Ⅰ) ①

旧簡易郵便局 ─ カリフォルニア・ベィビー

 この建物は赤レンガ倉庫群の西側にあり、もともとは1917年(大正6年)頃に竣工し、簡易郵便局として使われていたというアノニマス(作者不明)建築です。

 1977年(昭和52年)からは、洋食店カリフォルニア・ベイビーとして営業しています。 ファサードに特徴がありますので、調べてみました。 

 アール・デコ調の紋様があることから、アール・デコ建築ともいえそうですが、私が調査した日本のアール・デコ建築( 東京・名古屋・金沢・北海道 )は1920年代から30年代であったことや、パリ万国博覧会(アール・デコ博覧会)が開催されたのが1925年ですので、アール・デコと呼ぶには、少し時代が早いようです。  

 

 ファサードのフォルムはヴォーリズ設計の旧八幡郵便局(近江八幡市)にも似ています。

 私的には、ロココ様式のロカイユ模様がベースになったフォルムではないかと感じているのですがいかがなものでしょうか。 

 さらに、側面から見ますと「いわゆる看板建築」ともいえそうですが、様式が何かという以前に、100年程昔の、趣のある大正建築が、現役で使われていることに脱帽です。

 内部は70年代のアメリカを髣髴とさせる雑貨類が置いてあり、なかなか雰囲気があります。 「シスコライス」というのが、辻仁成のエッセイ「函館物語」にも出てくるなど、有名ということでしたので、早速、注文してみましたが、私には、少しボリュームがありすぎでした。

 今度は、もう少し軽い食事にしようと思っています。

 

竣工 - 1917年(大正6年)頃 

構造・規模 - 木造平家建

所在地 - 函館市末広町23−15

設計者 - 不明

受賞歴・指定等 - 歴風文化賞 

函館市 編(Ⅰ)②

旧亀井邸

 この建物は、函館出身の文芸評論家、亀井勝一郎の父で、函館貯蓄銀行支配人だった亀井喜一郎が、1921年年(大正10年)の函館大火で自邸が焼失した後に建てたものです。  

 石畳が落ち着いたたたずまいを見せる大三坂を上っていくと、元町カトリック教会の手前に、関根要太郎設計の、このおしゃれな建物が見えてきます。 

 

 よく見てみます。 淡いピンク色の壁と急勾配の屋根、集合煙突、換気塔、飾り窓、緩やかにうねる切妻、ボウウインドウ、ハーフチィンバー、玄関横にある不思議な装飾など、見れば見るほど、凝ったディテールの木造2階建の洋館で、この界隈にふさわしい形態のようにも思われ、当時の上流階級の好みが偲ばれます。  

 亀井は「神社・教会・寺院など、世界中の宗教が私の家を中心に集まっている」といったそうですが、確かに不思議な異国情緒あふれる界隈に位置しています。  

 さて、この見たことのない不思議な建築様式はいったい、何なんでしょうか。 

 関根要太郎の作品であることから、ユーゲント・シュティールと言われることが多いようです。確かに、この様式の代表的住宅とされるP・ペーレンスの自邸(ダルムシュタット)やイリス商会(デ・ラランデ明治40年横浜)とも似ています。  

 ただし、専門家の解説によりますと、このユーゲント・シュティールという様式、ドイツでは大流行したものの、日本では影響を受けたごく一部の建築家が、明治の末から大正の半ばにかけて試みたにすぎず、それぞれの建築家の作風も違っていたといいますから、よくわからないわけですね。 

 

 何となく、アール・ヌーヴォーの枠に収まっているということは感じるのですが・・。  

 さて、様式を紐解いてみます。19世紀末から20世紀初頭まで、ヨーロッパでは新しい建築運動がおこり始めます。

 アール・ヌーヴォー、セセッション、デ・スティル、アムステルダム派、表現主義、未来派、キュビズム、構成主義、バウハウス、アール・デコなどです。 

 その先駆けとなったのがアール・ヌーヴォーですが、この名称はフランス語での「新しい芸術」を意味していました。

 また、同じ造形的傾向を持つ美術や工芸がヨーロッパ各国で行なわれ始めます。

 イギリスではモダン・スタイル、ドイツと北欧ではユーゲント・シュティール、ベルギーでは、パリング・スティル、イタリアではスティレ・リバティー、スペインではモデルニスモ(ガウディの作品などが代表的)と呼ばれていました。

 それぞれに微妙に差異があるものの、これらの、代表格として「アール・ヌーヴォー」を使うのが一般的です。 また、アール・ヌーヴォーとユーゲント・シュティール、場合によっては、セセッションも同義語とされることがあるようです。ただし、日本では、直線性の強いアール・ヌーヴォーデザインをセセッション系と呼んでいるんだそうです。

 私は、かつて、金沢、名古屋、東京、北海道のセセッションについて調査したことがありますが、アール・ヌーヴォーやアール・デコとの差異は、なかなか難しいと感じました。

 いずれにしても、この時代の建築には、歴史主義様式からモダニズムに至る、同時代に出現したさまざまな様式が共存していることが多いようです。

 ですから、この亀井邸は、ユーゲント・シュティールのエッセンスを中心に、ハーフチィンバー様式やドイツ表現主義など、さまざまな要素を取り入れ、全体をまとめ上げた魅力的なデザインといったところでしょうか。  

 やはり、建築を旅すると、わくわくするような面白い発見があります。また、どこかを旅しよう・・そんな気持ちにさせてくれるのです。

 

工 - 1921年(大正10年) 

構造・規模 - 木造2階建

所在地 - 函館市元町15−28

設計者 - 関根要太郎

受賞歴・指定等 - 伝統的建造物

函館市 編(Ⅰ)③

旧岡本邸

 この建物は、北海道第一の魚網船具商として活躍した函館製網船具(株)の社長、岡本廉太郎の自邸として、1927年(昭和2年) に建てられたものです。

 傾斜地を利用した地下1階、地上2階の造りになっています。 

 切妻屋根にドーム屋根が組み込まれており、壁には縦長の開き窓は配される、すっきりとした洋館で、昭和初期建築の傑作とも称されています。 

 灰色の屋根は、何となく、パリのアパルトマンがイメージできて、好きな色合いです。

 2013年8月に訪れた時には、工芸品の展示販売を行なうギャラリーとして、活用されていましたが、内部写真はそのときのものです。

 家具や建築ディティールも美しいですが、特にさまざまな種類のステンドガラスや装飾ガラスのデザインが見事です。たくさんのお客さんでいっぱいでした。

 建物の美しさと工芸品の美しさ、両方に魅せられながら、館内外を歩きましたので、実際の空間よりも、豊かな空間だと感じました。

 

竣工 - 1927年(昭和2年) 

構造・規模 - 木造モルタル塗3階建 (あるいは地下1階、地上2階建)

所在地 - 函館市元町32−5

施工者 - 木田保造 

受賞歴・指定等 -  歴風文化賞

函館市 編 (Ⅰ) ④

旧茶屋亭

 酷寒の気候に伴う深刻な野菜不足による病に悩まされていたことから、箱舘奉行所は1857年(安政4年)薬用としてコーヒー豆を輸入したとあります。

 函館は日本で初めてコーヒーが飲まれたまちだと伝えられています。

 さすが幕末に開港した国際貿易港ですね。  

 さて、この旧茶屋亭は明治末期に海産商の店舗として建てられた、1階が和風、2階が洋風の上下和洋折衷様式の典型的な町家を改造したカフェになっていますが、このような様式の町家は函館独特だともいわれています。

 2階を見ますと、南京下見板張りに縦長窓、軒蛇腹ブラケットが美しく、高水準のデザインになっています。

 明治40年の大火により、町並が一変したことを機に、この様式が広がって行ったとされ、旧茶屋亭(明治末期)のみならず、近隣の和雑貨いろは(旧轟工業─明治41年)や旧古稀庵(明治42年)もその一例となるものです。

 なお、この建物も大正10年と昭和9年の2度の大火に見舞われましたが、20間幅の道路が防火帯となり、難を逃れることができたといいます。

 内部に入りますと、室内の照度が控えられ、窓に使われているステンドグラスが、外から光を受けて、一層引き立つように工夫されています。また、2階には手作り雑貨のコーナーも備えられています。

 大正ロマンな雰囲気を満喫したい方にはお薦めの建物です。

 

竣工 - 明治末期

構造・規模 - 木造2階建

所在地 - 函館市末広町14−27

受賞歴・指定等 - 伝統的建造物

その他 - 旧名称:近藤商店

函館市 編 (Ⅰ) ⑤

旧精養軒

 この旧精養軒は、もともと人気のパン屋さんだったといいます。

 外観の派手さがないので、何となく見過ごしてしまいそうな建物ですが、よく見てみますと並みの建築ではないことがわかります。

 庇を支える腕木に施された装飾、外壁に見られるアール・デコ調の幾何学模様は当時の商店建築の流行でした。 

 カフェでもアンティークショップでもないこの建物の用途は何かといいますと、函館出身の工芸家である永峯康紀さんの工房兼アトリエ「OZIO」として、リノベーションされたものです。 

 永峯さんは東京藝術大学の美術学部 工芸科/染織専攻を卒業していますが、大学在学中に鞄職人に弟子入りし、伝統的な製造技術を習得したといいます。

 現在は動物達をモチーフにしたレザーアートなどで有名です。

 函館市は30万人に満たない都市ですが、いろいろな方が活躍しているんですね。うらやましいです。

 

竣工 -  

構造・規模 - 木造2階建モルタル塗

所在地 - 函館市元町29-14

函館市 編 (Ⅰ)⑥

旧田中仙太郎商店 ─ 小森商店

 この小森商店(旧田中仙太郎商店)は、函館に現存する最も古い和洋折衷町家です。

 1階が和風、2階が洋風の函館ならではの、上下和洋折衷町家となっています。 

 建設当時は、店の前に海が広がっており、1階部分の間口の広い和風の店構えは商品の搬入や客の出入りに便利だったといいます。店を覗いてみますと、マニア垂涎の船舶関係の骨董品にあふれていました。 

 洋風の2階内部は、畳敷きの和風で、昔ながらの生活が営まれているそうです。

 では、何故に2階外観を洋風にしたのかといいますと、商売が繁盛しているということを知らせる広告媒体としての洋風だったとのこと。

 1907年(明治40年)の大火により、町並が一変したことを機に、このような様式が広がって行きました。(ただし、この建物がある弁天町界隈は大火を免れたといいます) 例えば、和雑貨いろは(旧轟工業─明治41年)や旧古稀庵(明治42年)、旧茶屋亭(明治末期)が、その例になります。 小森商店(旧田中仙太郎商店)は明治40年大火以前の建物ですが、1937年(明治12年)の大火の後に役人がウラジオストックを視察しており、これをもとに書かれた都市改造書によりますと、まちづくりのお手本として、家屋はロシア、ウラジオストックの家屋に習うようにと示されていましたので、その影響もあったものと思われます。 

 つまり、和洋折衷町家は函館独自の景観を作るために、計画的に取り入れられたということでしょうか。

 外回りを見てみます。 正面1階間口の上に庇がありますが、これは日除けや雨除けのみならず、1階と2階の和と洋を共存させるためのデザインツールでもあります。 

 下から見れば和風、上から見ると洋風、板張りに塗られた明るいペンキの色は、遠くからも人目を引きます。 

 2階の両開き窓は当時、大変に珍しいもので、窓台を持たないシンプルな額縁形式となっています。 庇の上には、ルネサンス時代の建築に見られる胴蛇腹といわれる装飾があり、軒のブラケットにも凝った雲形が見られます。

 店の看板である洋風部分には多くの手間が費やされているのです。

 なお、田中仙太郎は兵庫県美方郡諸寄出身の海産物仲買商で、屋根の下り棟端部の鬼瓦に屋号が残されているとのことです。

 

竣工 - 1901年(明治34年) 

構造・規模 - 木造2階建 300㎡

所在地 - 函館市弁天町23−14

設計者 - 櫻井喜三郎

施工者 - 櫻井喜三郎

受賞歴・指定等 - 市景観形成指定建築物

函館市 編(Ⅰ)⑦

旧轟工業 ─ 和雑貨いろは

 「和雑貨いろは」は旧轟工業として、1908年(明治41年)に建築されました。

 1階はささら子下見板で格子戸、2階は下見板で縦長の上げ下げ窓という典型的な上下和洋折衷の町家です。

 また、隣家の蕎麦レストランCOCOLOとの境には、大火でぎりぎりのところで難を逃れた経験からか、火災の延焼を防ぐための防火袖壁が建っています。 

 雑貨店内部には、和の道具や雑貨が並んでいますが、建物の持つ独特な雰囲気につつまれたアイテムは魅力的で、よりショッピングを楽しいものにしてくれています。

 東側隣地には、れんが造りのザ・グラススタジオイン函館1号や旧茶屋亭があり、西側隣地方向には、蕎麦レストランCOCOLOやバルレストラン ラ・コンチャ(旧深谷米穀店)などが建ち並び、さらに、道路向かいには函館海産商同業組合があるなど、まるで、時代が止まった異空間界隈にこの建物は建っています。

 

竣工 - 1908年(明治41年) 

構造・規模 - 木造2階建

所在地 - 函館市末広町14−2

設計者 - 不明

受賞歴・指定等 - 伝統的建造物

函館市 編(Ⅰ) ⑧

旧佐田邸

 この建物は、海産物商:佐田作郎が竣工後、数年で手放した後に函館の財閥、小熊幸一郎の娘夫婦の住宅として使われてきました。 

 また、この旧佐田邸は、近代建築の三大巨匠の一人、フランク・ロイド・ライトの弟子で、英語の通訳、さらに、バイオリン演奏家にして、札幌新交響楽団の創立者でもあったという多岐多才、田上義也(1899─1991)の代表作品の一つでもあります。 

 

 田上義也作品にも多く見られるライトの作風は基本的にはモダニズムの流れをくみ、幾何学的装飾の特徴から、アール・デコに類似していますが、ライトの偉大さからか、アール・デコ建築に組み込まれることは少なく、むしろ、ライト式などといわれています。

 この作品も同様に、幾何学モチーフがさまざまな部位に施されています。

 外観はもちろんのこと、特に、内部に入りますと、その世界観に圧倒されてしまいます。

 

 なお、この文章や写真については一時期、カフェギャラリーとして活用されていた時期のものです。 

 大きく張り出す軒のデザイン、水平性の強調、幾何学模様のステンドガラス、モンドリアンのコンポジションのように不規則な窓の障子割り、十字型平面をメタファーとしたかのような天井デザインなど、多くのライト式特徴が見て取れます。 

 また、外観の太い柱の形状は、大地に深く根を下ろしていることを表現しているのだそうです。

 札幌の旧小熊邸もそうですが、このきらびやかな内観は、カフェなどに、とても似合っているように思われます。 

 さて、フランク・ロイド・ライトの日本人弟子というと、帝国ホテルの設計を引き継ぎ、甲子園ホテルなどを手がけた、遠藤新が有名でしょうか。それに、土浦亀城の自邸も有名です。

 

 それでは田上義也とは、いったい、どのような人物だったのでしょうか。田上義也は、1899年(明治32年)に栃木県で生まれました。軍人である父の勧めで陸軍幼年学校に入ったものの馴染めず、その後、青山学院中等部に通いながら、早稲田工手学校で建築を学び、逓信省に就職します。 

 なお、16歳の時に洗礼を受け、キリスト教徒となっています。

 ライトの事務所に雇われるきっかけは「英語のできる建築技師を求む」という新聞の求人広告だったそうです。そして、帝国ホテル竣工披露パーティ当日に、あの関東大震災がおきてしまいます。多くの建物が倒壊や火災に見舞われる中、帝国ホテルは地震の被害がなく、ひときわ人々の目を引いたといいます。

 しかし、田上は、この関東大震災の2ヵ月後、24歳のとき、バイオリン一丁だけを持ち、夜行列車に乗って、札幌へと旅立ちました。

 未曾有の震災をきっかけに北海道へと向った理由ですが、明確な目的があったわけではないようです。

 学生時代に評論家、北村透谷の未亡人が営む下宿に住んでいたことから、出入りする島崎藤村とか武者小路実篤を通じて、有島農場について、あるイメージがあったということが、きっかけだともいわれていますが、ドキュメンタリー番組の中では、ライトの出身地はアメリカだが、北海道を小さなアメリカと見立てて、さまざまなことを考えてみようと思ったと語っていました。

 実は、この夜行列車での出会いが田上義也の人生を大きく変えることになるのです。

 列車の中で、はらぺこで眠りこけていた田上青年が盛岡あたりで目を覚ますと、手のひらにりんごがのっていました。

 向かいの席の外国人に英語で「あなたですか」と聞くと、日本語で「神様があなたにくださりました」 と答えてきたといいます。 

 この外国人こそ、アイヌの父と呼ばれた宣教師、ジョン・バチェラーだったのです。

 その後、田上青年は、バチェラー邸に住み、バチェラー師をパトロンとして、北海道最初の建築家兼バイオリニストの道を歩み始めます。

 建築家としては、アイヌ保護学園(後のバチェラー学園)を皮切りに、インテリ層の邸宅、ユースホステル建築、公共建築など、設計の場を広げていくことになります。 さらに、札幌新交響楽団の創立者となるなど、時代の牽引者となっていったのです。

 どうやら、田上義也のみならず、偉人達の生きざまというのは、まさにドラマそのもののようですね。 

 まだまだ、エピソードは語りつくせません。また、別の田上作品の中で語ってみたいと思います。

 

竣工 - 1928年(昭和3年)

構造・規模 - 木造2階建

所在地 - 函館市元町32−10

設計者 - 田上義也

受賞歴・指定等 - 国登録有形文化財 景観形成指定建築物 歴風文化賞

その他 - 「プレイリーハウス」とも呼ばれる。これは師であるライトの作風が草原様式(プレイリースタイル)と呼ばれたことに由来する。※田上義也の作品は他に、網走市編③網走市立郷土博物館、道央編(Ⅰ)⑤支笏湖ユースホステル、札幌市編④旧小熊邸がありますので参考にしてください。

函館市 編(Ⅰ) ⑨

太刀川家住宅・店舗

 初代太刀川善吉は新潟県長岡の出身で、幕末に渡道し、回船問屋として成功しました。 この建物は、かつての海岸通りの繁栄を伝える商家の一つで、1901年(明治34年)に建築されたものです。当初は、倉庫業・米穀商も兼ねて営業していたといいます。 

 左右両側に袖壁を備えた店舗は防火造り商店の代表格です。 

 1878年(明治11年)と1879年(明治12年)に発生した、大火後に開拓使は防火造建築奨励施策を行ないました。 

 石造り、れんが造り、土蔵造りに対して資金融資を行うこととしたものです。これを機に、有力商人達は防火造り町家を建築しはじめます。例えば、この太刀川家や旧金森洋服店、 旧遠藤吉平商店などが防火造り町家になっていました。

 

 さて、太刀川家の建物に話しを戻します。屋根はクイーンポストと呼ばれるトラス形式の洋組で瓦葺、外壁はれんが造の壁の上を防火のために漆喰で塗り固めたものです。 さらに1階には、2本の竪溝じゃくりのある鋳鉄柱で横架材の上の3連アーチを支えていますが、これらの工法は、旧金森洋服店(1880年)や旧遠藤吉平商店(1885年)の工法とほぼ同じです。

 ただし、全体的には、太刀川家は和風土蔵造り風に、金森洋服店や遠藤吉平商店は洋風仕立てになっており、ずいぶんとイメージが違って見えます。 

 さらに、よく観察してみますと、庇を支持する唐草意匠の鋳鉄製ブラケットなど、洋風意匠も随所に見られます。これら鋳鉄製ブラケットや鋳鉄柱は函館市内でしばしば見受けられる意匠で、たとえば、旧金森洋服店のそれらとは、ほぼ同意匠だそうです。 

 内部には、新潟や釧路から集めたというケヤキや桂材が豊富に使われています。 

 

 私が訪れたときには、1階が「TACHIKAWA CAFE」というカフェになっていましたので、その時点での写真とコメントになります。  

 このTACHIKAWA CAFEで、セットメニューをいただいた後、奥に進むと2階まで吹き抜けになった「じょうや」と呼ばれる帳場が開けており、その奥は住宅部分へとつながっています。

 また、2階へは、まるで工芸品のような、みごとな洋風箱階段でつながっていました。  隣の洋館は、函館日日新聞社長を務めた4代目善一郎が応接専用室として、1915年(大正4年)に増築したものですが、瓦葺、西洋下見板張り、上げ下げ窓、2階の張出しを2本の柱で支持する形式になっています。 

 さらに、軒下には彫りの深い植物模様のブラケットが見え、凝った贅沢なつくりになっていることがわかります。平面は1階が玄関、応接室、2階が和室2室になっているといいます。  

 このカフェで食事をしていると、修学旅行らしき中学生以下の男女5~6人がザーッと入ってきました。ソファーに深々と腰掛けたかと思うと、パチパチ写真を撮ったり、カフェのスタッフに撮ってもらったりしていました。  

 「子供達が、こんな上品なカフェで食する時代になったんだなぁ~」と思いにふけっていると、目の前から彼らは姿を消し、外に移動していました。  

 「あれ?注文しないで帰っちゃったの?」とスタッフに聞くと、唖然としながら、「・・のようですね」と話していました。 

 国指定重要文化財や市景観形成指定建築物になっているので、説明するのも仕事だとのこと。結構、大変なんですね。  

 いずれにしても、大人にも、子供にも、この本物の空間を満喫してもらいたいものです。

 

住宅・店舗竣工 - 1901年(明治34年) 

構造・規模 - れんが造2階建、間口5間、奥行7間の規模となっている。

所在地 - 函館市弁天町15−15

設計者 - 山本佐之吉施

工者 - 山本佐之吉、伊藤栄次郎

受賞歴・指定等 - 国指定重要文化財、市景観形成指定建築物

洋館竣工 - 1915年(大正4年) 

構造・規模 - 木造2階建

所在地 - 函館市弁天町15−15

受賞歴・指定等 - 市景観形成指定建築物

函館市 編(Ⅰ) ⑩

旧饗場守三住宅兼診療所

 この建物は、函館区立病院の第七代院長であった饗場守三が、独立後の1909年(明治42年)に住宅兼診療所として建てたものです。 

 この周辺は、当時、開業医が多く、医者町とも呼ばれていたとか。

 

 ところで、話しは少し飛んでしまいますが、この「函館区」とは一体、何なんでしょうか。そういえば、旧函館区公会堂ともいいますね。

 函館は、その変遷をたどると、さすが歴史の町で、1882年(明治15年)に北海道開拓使が廃止され、「札幌県」、「函館県」、「根室県」の3県が設置されたものの、それも束の間、4年後の1886年(明治19年)には廃止され、北海道庁の設置となります。

 これを「廃県置庁」といいます。さらに、1899年(明治32年)には北海道区制が施行されると、「函館区」となりました。しかし、1922年(大正11年)に市政が施行され、今日の函館市となったものです。

 さて、話を建物に戻しましょう。 

 その後、この建物は弁護士宅や、賃貸住宅、下宿などを経て、平成20年には建設当時の写真を参考に復元、「箱館元町の宿 饗場」として、開業しています。

 昔の写真を見ますと、ディテールや色彩まで再現されているかは不明ですが、全体的なイメージ保存としては充分に伝わっていると思います。

 外壁は黒色の南京下見板張りで、白いペンキで塗られた窓や隅柱、胴蛇腹、さらに破風やブラケットで引き締められています。

 このような配色の古建築は道内にも数多くありますね。 

 外観しか見ることができませんでしたが、バラエティのあるディテールで、とてもいい出来ばえなんじゃないでしょうか。 気に入っています。

 

竣工 - 1909年(明治42年) 

構造・規模 - 木造2階建

所在地 - 函館市末広町20−2

受賞歴・指定等 - 伝統的建造物