建築を旅してplus

道央 編 (Ⅰ)①

紫明苑 ─ 壮瞥町

 地域住民に広く利用されている壮瞥町の紫明苑開拓記念公園内(元橋口農場地域内)には、ひっそりとかわいらしい小屋が建っています。今回はこの建築を旅してみました。  

 この地帯は実に、山紫水明であったことから、この建物を紫明苑(壮瞥小屋ともいう)と称しました。

 札幌農学校初代校長の橋口文蔵は米国式農業普及のため、明治20年に壮瞥とルスツに農場を開設します。両農場で米国式農法を普及しようと、農具を輸入、小作人にその使用を奨励していました。これらの格納場所として、また交通が不便であったことから、日用品や生産物の運送の中継要所として設置されたのが、この建物です。

 

 当時としては珍しい、和洋折衷建築で、黒塗りの壁に、白い窓枠や、かわいらしい白い飾り破風板(バージボード)がアクセントになっています。

 現在、開拓記念館として保存され、農機具や猟具などが陳列保存されているといいますが、残念ながら、内部を見ることはできませんでした。

 お伺いしたところ、時折、集いに使われているということでした。

 なお、2012年には壮瞥町史跡として、指定されています。

 

竣工 - 1887年(明治20年)復元 - 1967年(昭和42年)

構造・規模 - 木造平屋 亜鉛葺 間口六間三尺(11.88㎡) 奥行五間三尺(9.99㎡) 81.19㎡

所在地 - 有珠郡壮瞥町字滝之町287-65

受賞歴・指定等 - 壮瞥町史跡 壮瞥町指定 指定年月日:2012年11月19日

道央 編 (Ⅰ)②

旧島松駅逓 ─ 北広島市

 国道36号線を恵庭方面から札幌へ向うと、恵庭市と北広島市の境界線付近左側に旧島松駅逓とクラーク博士記念碑という案内標識があり、左折すると程なく、この旧島松駅逓が見えてきます。  

 ところで、この「駅逓-えきてい」とは、どのようなものなのでしょうか。 

 北海道の開拓時代、鉄道も車もない時代に、交通補助機関として駅舎と人馬を備え、旅人の宿泊・人馬継立・郵便などの業務を行っていたもので、1799年(寛政11年)に始まりました。一時期は北海道各地に600箇所以上も設置されたといいますが、鉄道の開通と共に自然消滅してしまいます。  

 島松駅逓所は1873年(明治6年)頃、札幌本道(現在の国道36号で札幌函館間)の開通に伴い設置されたもので、1884年(明治17年)からは、河内国石川郡太子町春日(現在の大阪府河内郡太子町春日)出身で、最終的には島松に入植し、石狩水田の祖とうたわれた中山久蔵が四代目駅逓取扱人となり、1897年(明治30年)まで経営に当っていました。

 当時の駅逓所の構造を残す建築物としては道内最古のものです。  

 余談ですが、中山という姓は、当時の開拓使次官、黒田清隆から「山の中の人という意味で中山と名のれ」と言われたことによるんだそうです。  

 

 外観は木を薄く割ったこけら葺きの切妻屋根が特徴となっており、正面を見ますとずいぶんと横長で、その長さは約27.9m、梁間は12.4m(納戸、便所を除く)、基礎は自然山石、小屋組は和小屋組ですが、ダイドコロ部のみ、大胆に登梁【※1】に母屋を渡しています。

 外壁は下見貼り胴縁押え(上手便所部のみ竪板張り目板押え)となっています。

 内部を見ますと南から上手、中手、下手に分けられますが、上手は明治14年に増築された「行在所」として増築された上座敷、中手は旅人の宿泊室であった中座敷、下手は居間、帳場、ダイドコロ部となっています。

 また、格子になった火棚が炉の上に釣るされていますが、これは濡れた衣類などを乾かすための工夫だそうです。 

 さらに、余談ですが、この駅逓所は、1877年(明治10年)札幌農学校の初代教頭を務めていたクラーク博士がわずか9ヶ月の在任を終えて帰米に際し、見送りに来た生徒達に「青年よ大志をいだけ」という名言を残した場所と言われています。

 当時の移動手段は馬や航路だったそうですから、函館、横浜港さらにマサチューセッツまでとなりますと、気の遠くなるような旅程であったことでしょう。

 その後、さらに、1881年(明治14年)には明治天皇本道ご巡幸の際の行在所ともなっており、昼食の休憩所に当てられた部屋が現存しています。

 昭和59年に国史跡に指定された後、1984年(昭和59年)から1990年(平成2年)にかけて、解体・修復されています。

 保存修理に当っては、釘を使わない柱の継ぎ方を採用し、建物が長持ちするような工夫を施したとのことです。

【※1】登り梁屋根勾配などに合わせ、斜めに架けられる梁のことで、勾配天井や天井を設けない場合などに用いる。

 

竣工 - 1873年(明治6年)頃~1881年(明治14年)改修 - 1984年(昭和59年)~1990年(平成2年)

構造・規模 - 木造平屋 こけら葺 切妻屋根 332.795㎡

所在地 - 北広島市島松1番地

受賞歴・指定等 - 国史跡

道央 編 (Ⅰ)③

旧マンロー邸 ─ 平取町

ニール・ゴードン・マンロー(1863~1942)はスコットランド出身の医師・考古学者で、1891年(明治24年)には香港経由で日本へと渡り、横浜や軽井沢で医師として働きます。諸事情により1905年(明治38年)、日本に帰化した後、1933年(昭和8年)には、北海道へと渡ります。

平取町字二風谷に、このマンロー邸(居宅兼診療所)を建て、献身的な医療活動を行うと共に、アイヌの人類研究などを行なっていました。

1942年(昭和17年)、マンローの波乱の人生に、この地で幕を下ろします。79歳でした。

 

さて、建物を見てみます。札幌から二風谷の復元されたチセやアイヌ文化博物館のある一角へと向かうと、その手前左側にマンロー博士お気に入りであったドイツトウヒの並木道が見えてきます。ここを通り抜けますと、白い下見板張りの外壁に赤いマンサード屋根、さらに、ドーマー窓や3階妻面の出窓が特徴的な洋館が見えてきます。

よく見ますと、この出窓は幾何学的な組子がデザインされており、さらに1階と2階との間には、胴蛇腹的な飾り庇が付けられ、単調になりがちな外壁のアクセントになっています。

なお、設計はマンロー自身が行なったともいわれています。

現在は北海道大学大学院文学研究科・文学部が「二風谷研究室」として所管している建物です。  

                                  竣工- 1933年(昭和8年)                             構造・規模 - 木造3階建一部平屋(書斎棟)                       所在地 - 平取町字二風谷54-1                            受賞歴・指定等 - 登録有形文化財、重要文化的景観

道央 編 (Ⅰ)④

赤心社 ─ 浦河町

 赤心社とは、北海道開拓を目的に神戸で組織されたクリスチャンによる開拓団です。 参考までに「赤心」とは「嘘いつわりのない、ありのままの心、まごころ」の意味です。

 1880年(明治13年)には、広島・兵庫からの52名が、翌1881年(明治14年)には、愛媛・兵庫・広島三県からの男女83名が浦河に入植しています。

 人や手荷物とは別に荷物は帆船で運びましたが、千島まで流されてしまい、30日も遅れてしまったとか、土器類がほとんど壊れてしまったなど、散々な入植だったといいます。

 浦河町は北海道にあっては、比較的温暖で積雪も少ないとはいえ、開墾の厳しさは想像を絶するところですが、その後、牧畜業や商店経営、養蚕業、果樹園芸、醤油醸造業など、多角的な事業展開から、開拓事業を成功させていきました。 

 1888年(明治21年)、浦河町荻伏に出張所として新築、その後、1918年(大正7年)に事務所は荻伏村に寄付され、1954年(昭和29年)に現在地(浦河町荻伏15番地)に移転となり、浦河郷土館として再利用された後、1974年(昭和49年)に赤心社記念館と改称して現在に至るとのことです。

 

 白く塗られたドイツ下見板張りに縦長両開き窓が付き、壁の最上部には、軒蛇腹ブラケット(持ち送り)が付くといった洋風建築の上に和風の寄棟屋根をのせた和洋折衷建築です。

 

竣工 - 1888年(明治21年) 

構造・規模 - 木造

所在地 - 浦河郡浦河町荻伏15番地

道央 編 (Ⅰ)⑤

支笏湖ユースホステル ─ 千歳市

 支笏湖は手付かずの自然が残る人気のカルデラ湖です。

 道道453号線から支笏湖側に入ると有料駐車場の北側に、ひっそりと建つ赤い三角屋根の「支笏湖ユースホステル」が見えてきます。

 この赤い三角屋根は、かつて支笏湖のシンボルであったと言いますが、現在は閉館になっていることもあり、目立たず、自然の中に埋もれています。

 ただし、私が行ったときには裏手にある新館に大勢の方が宿泊されていましたね。

 国内の直営ユースホステル協会直営、第1号のユースホステルとして誕生したものですが、この山荘のような建物は田上義也の作品です。

 印象としては、え?と思うほど、田上の作風とは異なって見えました。そもそも、田上義也とユースホステル建築が結びつかなかったのですが、北海道ユースホステル協会会長の職にも就いていたんですね。その他の公職を数え上げれば限りがありません。

 田上作品のユースホステルを挙げますと、解体されたものも含めて、支笏湖、室蘭、弟子屈、小清水、摩周湖、美幌、北湯沢、札幌宮ケ丘など数多くありますが、それぞれタイプが異なり、デザインの一貫性がないように思われます。

 田上義也は支笏湖ユースホステル完成の2年後に、同じく赤い三角屋根の北湯沢ユースホステルを完成させていますが、その折、「設計は環境順応しつつ、更に環境を衝動してその風土と共に呼吸する」と語ったと言います。(千歳の歴史的建築物調査より抜粋)

 つまり、ゲニウス・ロキです。タイプが違うのは環境順応させているということなのですね。納得です。

 

 外観を見ますと、急勾配の三角屋根が地面まで伸び、ピラミッドのようなデザインです。内観も見学可能でしたので、じっくりと見させてもらいました。玄関を入るとホールが吹き抜けになっており、網走市立郷土博物館同様の美しい螺旋階段があります。

 階段廻りのデザインを見ますと田上義也作品だと納得させてくれます。

※2021年閉館、2022年には解体されました。残念です。

 

竣工 - 1960年(昭和35年) 

構造・規模 - 木造2階建 598.03㎡

所在地 - 千歳市支笏湖温泉

設計者 - 田上義也 

※田上義也の作品は他に、網走市編③網走市立郷土博物館、函館市編(Ⅰ)⑧旧佐田邸、札幌市編④旧小熊邸がありますので参考にしてください。

道央 編 (Ⅰ)⑥

旧中村平八郎家住宅─ むかわ町穂別

 中村平八郎は1893年(明治26年)に石油資源開発のため、新潟から穂別に入植しましたが、明治31年の大洪水で断念、その後、農業や木炭業に専念します。

 さらに村議会議員を長く勤めるなど穂別開拓功労者の一人でした。

 この建物は1924年(大正10年)から3ヵ年かけて建てられましたが、わざわざ本州から大工を呼んで建てた本格的な邸宅です。昭和47年まで使用されていました。

 1994年(平成6年)に中村家より穂別町(当時)に寄贈、2001年(平成13年)に国の有形文化財に登録されたのを機に、2004年(平成16年)には穂別ニサナイ地区から、現在の場所に移築復元(一部解体)されました。

 さらに、その翌年(平成17年)には「中村記念館」として活用されています。

 

 建物を見てみます。正面玄関部分が、むくり破風屋根になるなど和風平屋建ての造りとなっており、正面左側は2階建て下見板の洋館風になっている和洋折衷建築です。

 洋館部分を見てみます。窓は洋風上げ下げ窓で、1階部分には外部に鉄格子が施されています。隅柱は大断面の定規柱、外壁は胴蛇腹といった洋風意匠になっていました。

 内部は平屋部分、2階建て部分とも、土塗り真壁や羽目板張りの内壁、建具には襖・障子・欄間が用いられるなどの和風仕上げとなっています。

 また、この建物の最大の特徴とされるのが、内外とも柱材も含めて、広葉樹が多用されていることだといいます。 確かに黒色の柱材の木目(四方柾)などはなかなか見ることができないものです。あばれや歪みもないことから、材料の吟味や良質の施工をうかがうことができます。

 北海道内陸部における大正期邸宅建築の様子を知る上で貴重であると評価されています。

 

竣工 - 1924年(大正13年)─ 大正10年3月起工、大正13年4月竣工

構造・規模 - 木造2階建

所在地 – むかわ町穂別20番地2他

受賞歴・指定等 -登録有形文化財

道央 編 (Ⅰ)⑦

旧当別町立弁華別小学校 ─ 最後の木造二階建て校舎

 当別町の中心地から、北方へ車で5分ほど走ると赤い屋根と下見板張りが特徴的な校舎が見えてきます。

 1892年(明治25年)当別尋常小の弁華別分教場として開校した後、児童数の増加と校舎の老朽化により、1937年(昭和12年)に新築されたものです。

 2012年(平成24年)3月末に増毛小学校校舎が閉校となった時点で、この建物は北海道最古の現役木造二階建て校舎となりましたが、それも束の間、2016年(平成28年)3月末で、閉校となってしまいました。とても寂しい思いがしますね。

 今日まで、不燃化と低コスト化を重視した鉄筋コンクリート造による、画一的な校舎整備が大量に進められてきました。

 やむを得ない選択であることは承知していますが、どの学校空間も重苦しく感じるのは私だけではないはずです。

 近年の学校施設では、温かみと潤いのある学校づくりが進められ、小規模な木造校舎の整備も行われるようになってきていると聞きますが、なかなかそのような校舎は見かけませんね。

 一方で、栗山町の旧雨煙別小学校(雨煙別小学校コカコーラ環境ハウス)や東川町の東川第5小学校(北の住まい設計社)、旧芦別市立頼城小学校(星槎大学)といったリノベーションもありますので、新しい展開を期待しています。

 

竣工 - 1937年(昭和12年)

構造・規模 - 木造2階建 鉄板葺 1739㎡

所在地 –当別町弁華別243番地

道央 編 (Ⅰ)⑧

旧北海道炭鉱汽船株式会社(北炭鹿の谷倶楽部) ─ 夕張鹿鳴館

 かって、三井財閥に属していた北海道炭鉱汽船株式会社(北炭)は、炭坑が好景気に沸いた時代には、夕張や三笠、赤平など、多くの炭坑を経営していました。

 また、大正2年には炭鉱事業の集約化として、本社が岩見沢から夕張へと移転されます。

 この旧鹿ノ谷倶楽部は北炭の来客接待のために、建てられたもので、この種の施設としては道内最大規模の和風建築といわれています。

 ただし、内部には洋室も備えられていますので、和洋折衷とも言えましょう。

 この建物は本館、第1別館、第2別館からなり、それぞれの別館が本館に廊下で結ばれています。 

 本館は、1913年(大正2年)に岩見沢にあった重役宅を移築したもので、第1別館は1916年(大正5年)に三井男爵の宿泊用に増築、第2別館は1913年(大正2年)に最上級の職員住宅として建てられた北海道の大正期を代表する近代和風建築です。

 夕張市は2007年(平成19年)3月6日に財政再建団体に指定され、事実上財政破綻しました。同年、負債削減のために夕張リゾートに一旦、この建物の管理が委託されましたが、修繕費の折り合いがつかず、管理権は返上されます。 

 さらに、2009年には夕張市から小樽市内の業者に譲渡、レストランとして運営されましたが現在は使われていません。

 夕張新鉱の閉山により、多くの貴重な施設が取り壊されてきましたが、この施設は市民や研究者などの保存要望により、残されてきたといいます。

 今後とも、末永く存続してほしいものです。

 

本館:竣工 - 1913年(大正2年) 

構造・規模 - 木造平屋 第1別館:竣工 - 1916年(大正5年) 

構造・規模 - 木造平屋 第2別館:竣工 - 1913年(大正2年) 

構造・規模 - 木造平屋

所在地 - 夕張市鹿ノ谷2丁目

設計者 - 北海道炭鉱汽船施工者 - 篠原要次郎

受賞歴・指定等 - 国登録有形文化財、近代化産業遺産

その他 - 敷地面積:85、330㎡、延床面積約14,000㎡

道央 編 (Ⅰ)⑨

新十津川農業記念館

 新十津川町は1889年(明治22年)の大豪雨で、壊滅状態になった奈良県吉野郡十津川郷からの集団移民を迎えるために、その翌年、北海道で最初の植民地区画事業により開拓されたまちです。

 そのような縁ですので、奈良県十津川村と北海道の新十津川町とは、同じ市町村章が用いられています。

 この建物は、もともとは1921年(大正10年)に信用購買組合の建物として建設されたもので、当初は国道側の角地にありました。

 また、1966年(昭和41年)からは開拓記念館として利用されていましたが、新館完成(隣接する建物)に伴い、現位置に曳家、1986年(昭和61年)には復元改修され、農業開拓の歴史を伝える記念館として再生されています。

 建物に近づいてみます。こぢんまりとした煉瓦造2階建て、寄棟屋根の建物が見えてきます。正面玄関には車寄せが設けられ、窓廻りにも意匠上の工夫が見られます。 中に入ると、執務中かと錯覚するような光景が出現し、一瞬ですが、昭和へのタイムスリップが楽しめました。

 

竣工- 1921年(大正10年) 

構造・規模 - 煉瓦造2階建               

所在地 – 樺戸郡新十津川町字中央1番地

道央 編 (Ⅰ)⑩

当別伊達記念館・伊達邸別館

 江戸時代末期の仙台藩一門・岩出山伊達家当主である伊達邦直が開いたのが、当別町です。 参考までに伊達市の開祖、邦成は邦直の実弟で、亘理伊達家を継いでいます。(伊達市 編 ①伊達市迎賓館 参照して下さい)

 伊達邦直は1834年(天保5年)伊達一門の岩出山伊達家に生まれました。

 1868年(明治元年)戊辰戦争に破れ、家臣救済のためにと北海道移住を決意します。1871年(明治4年)、第1回移住団180人は、最初、指定された石狩川河口に近いシップ(厚田村)に入りますが、耕作に向かないとの判断から断念。その年の冬に改めて当別の地を調査した上で、翌5年に第2回移住団約182人が再入植します。

 第1陣と合流し、当別の開拓に当たったといいます。

 現在、邸宅は失われ、別館だけが保存されていますが、この建物は1880年(明治13年)に建設され、来賓の接待や諸会議のため、住宅に付属して建てられたものと伝えられています。

 1980年(昭和55年)には当別町に寄贈され、現在地に移築・復元、1982年(昭和57年)からは、当別伊達記念館として公開されています。

 なお、岩出山町から寄贈された杉、孟宋竹を使用した環境整備が行なわれたとのことです。

 

 さて、建物を見てみます。外観は、寄棟屋根の頂部と玄関上部には棟飾りがつけられた2階建て下見板張りに、上げ下げ窓といった小規模な洋風建築です。

 内部を見てみましょう。1階には板張りの洋間や会議室がありますが、ここで接見や開拓期の村政会議が行なわれたようです。

 急な階段を昇ると、2階は畳敷きの和室になっており、縁側も付いています。

 長押には釘隠しがありますが、これは「仙台笹」という伊達士縁の紋だそうです。

 係りの人から、詳しい説明を頂きました。感謝です。

 

竣工 - 1880年(明治13年)

構造・規模 - 木造2階建

所在地 - 当別町元町108

受賞歴・指定等 - 当別町文化財