建築を旅してplus

北海道開拓の村 編(Ⅲ) ①

旧札幌拓殖倉庫

 札幌軟石を使用したこの建物は、もともとは明治40年頃、営業用倉庫として五十嵐倉庫合名会社が建てたものですが、明治45年創立の札幌拓殖倉庫株式会社に引きつがれます。

 当初は札幌駅北側に隣接し、線路に直角に位置していた6棟の内、一番西側の棟で、梁間5間、桁行27間、面積135坪の木骨石造でした。開拓期の農産物の集散に大きな役割を果たし、地域の発展に貢献したといいます。

 昭和56年、その敷地が鉄道高架用地として買収されることとなり、移築復元されました。

 

旧所在地:札幌市北区北6条西1丁目

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

建設年度:1907年(明治40年)頃

構造: 木骨石造平屋建

収集年 1982年(昭和57年)

復元年 1984年(昭和59年)

寄贈者 北海道拓殖倉庫株式会社

北海道開拓の村 編(Ⅲ)②

旧青山家漁家住宅

 江戸時代の後半になると、松前・江差方面では鰊が獲れなくなってしまいます。回遊が北上し、小樽沿岸に漁場が移ってしまったのです。

 獲れた鰊は、そのほとんどが農業用肥料に加工され、北前船で全国へと売られました。

 青山家は、安政6年(1859)山形県から渡道し、小樽沿岸を中心に鰊建網などを経営した漁家で巨万の富を築きました。全盛期には25ケ統を経営したと言います。

 大正12年の祝津大火の折りには、ただちに防火対策を施し再建されています。モモナイ産軟石積みの防火壁や煉瓦造布基礎、漆喰壁外壁などです。

 外観を見ますと、形の異なる2ヶ所の純和風正面玄関に瓦葺き入母屋屋根、漆喰塗りの煙出しが特徴的です。

 建網経営には番屋をはじめ網倉、船倉のほか海産干場、船入澗など多くの施設、設備を必要としました。鰊漁場の建物が、このように集約的に保存されているところは少なく、貴重な遺構の一つになっています。

 

旧所在地:小樽市祝津町3丁目

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

建設年度:1919年(大正8年)

構造: 木造一部2階

収集年 1980年(昭和55年)

復元年 1983・1984年(昭和58・59年)

寄贈者 青山 馨

北海道開拓の村 編(Ⅲ)③

開拓小屋

 この建物は開拓者が最初に建てた住居で、開墾小屋とも称されています。

 ここでは明治期の住居が再現されています。

 

 建物を見ますと、丸太を埋め立てて柱とし、それに桁や梁・垂木を渡し、笹や茅などで屋根や壁を葺き、出入口や窓にはムシロを下げています。

 屋内は土間、あるいは笹や枯れ草を重ねた上にムシロを敷き、炉を設けています。

見た通りの、生きるために最低限必要となる原始的住居です。 

 この空間で北海道の冬を越すというのは、至難の業であっただろうと思われます。

 

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 

面積:28.98㎡(8.77坪)

構造:主屋─木造平屋建

北海道開拓の村 編(Ⅲ)④

旧ソーケシュオマベツ駅逓所(厩舎)

 この建物は1909年(明治42年)から1934年(昭和9年)まで営業されていた官設駅逓所です。

 平面形が残され、表玄関、裏玄関、取扱人室、客室が配置されています。

 厩舎は移設時には残存せず、移築後に新築再現されたものです。

 

 「駅逓-えきてい」とは、北海道の開拓時代、鉄道も車もない時代に、交通補助機関として駅舎と人馬を備え、旅人の宿泊・人馬継立・郵便などの業務を行っていたもので、1977年(寛政11年)に始まりました。

 一時期は北海道各地に600箇所以上も設置されたといいますが、鉄道の開通と共に自然消滅してしまいます。

 道央編(Ⅰ)②旧島松駅逓─北広島市を参照してください。

 

 なお、ソーケシュオマベツとは、アイヌ語で「滝・末端・そこに入る・川」の意味だそうです。現在もソーケシュオマベツ川があり、旧地名は「双葉」となっていますが、それ以前は「ソーケシュオマベツ」という地名だったそうです。

 

旧所在地:虻田郡喜茂別町双葉

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 北海道開拓の村内

建設年度:主屋─1907年(明治40年)頃 厩舎─1915年(大正4年)

面積:主屋─129.68㎡(39.23坪) 厩舎──109.79㎡(33.21坪)

構造:主屋─木造平屋建、

寄贈者:長屋増夫

北海道開拓の村 編(Ⅲ)⑤

旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)

 札幌農学校は1876年(明治9年)に現在の時計台付近に開学しています。明治36年には現在の北海道大学の敷地に移り、寄宿舎も新築されました。

 「恵迪寮」と命名されたのは明治40年のことです

 

 大正8年には増築、昭和6年には予科寄宿舎が北17条西8丁目に移転しました。

 当時は玄関棟と2棟36室、及び厨房棟がありましたが、復元したのは玄関棟と2棟12室です。

 昔はこのような下見板張り木造建築が当たり前だったんでしょうが、今見ると、さすがに迫力があります。

 

旧所在地:札幌市北区北17条西8丁目

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 北海道開拓の村内

建設年度:1903年(明治36年)

面積:756.65㎡(240.68坪)

構造:木造2階建

収集─復元:1903年(昭和58年)─1904年(昭和59年)

寄贈者:恵迪寮同窓会

北海道開拓の村 編(Ⅲ)➅

旧小川家酪農畜舎

 この畜舎は、大正後期に札幌農学校出身の小川三策氏がアメリカから取り寄せた設計図を参考に建築したもので、19世紀のアメリカで発達したバルーンフレーム構造が特徴です。

 隣に建つ軟石サイロは厚別の農家から譲り受けたものを移築しました。

 

※バルーンフレーム構造とはツーバイフォー工法(枠組壁工法)の前身で、札幌時計台などが代表です。

 

旧所在地:札幌市清田区平岡公園

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 北海道開拓の村内

建設年度:大正後期頃

面積:276.22㎡(83.56坪)

構造:木造2階建 バルーンフレーム構造 サイロ 石造

収集年:1986年(昭和61年)

復元年:1988年(昭和63年)

その他:サイロは軟石(溶結凝灰岩)

北海道開拓の村 編(Ⅲ)⑦

旧広瀬写真館

 写真館の創設者である広瀬和左衛門は石川県出身の大工でしたが、明治25年に岩見沢に移住し、旅館業を営みます。

 明治31年には以前から興味を持っていた写真館を開業します。その後、写真館は広瀬元吉に任されることとなりました。

 開拓の村に設置された建物は大正13年に新築された写真館の再現です。

 外観は洋風意匠を多く取り入れていますが、内部は和風仕様が主体であることは、この時代の一般的な仕様です。特徴的なのは自然光を取り入れるために北側屋根をシングル・スラントと呼ばれる斜めのガラス張りとしていることです。

 シングル・スラントという名称を私は初めて聞きましたね。

 

旧所在地:岩見沢市4条東1丁目

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 北海道開拓の村内

建設年度:1924年頃(大正13年)

面積:204.98㎡(62.00坪)

構造:木造2階建

復元:1990年(平成2年)

北海道開拓の村 編(Ⅲ)⑧

旧土谷家はね出し

 はねだしは鰊漁家の付属建物として海岸の地形に合わせて海側にはね出す形で建てられた倉です。床に開口があり、荷の搬入・搬出が容易にできるようになっています。

 漁具や漁網、漁獲物、身欠鰊・魚粕・数の子などの加工品が収納されていました。

 江差町 編 ①の旧中村家住宅の内部写真が参考になります。

 

旧所在地:爾志郡熊石町字根崎

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 北海道開拓の村内

建設年度:1887年頃(明治20年)

面積:80.14㎡(24.24坪)

構造:木造平屋建

収集年:1985年(昭和60年)

復元年:1986年(昭和61年)

寄贈者:土谷利美

北海道開拓の村 編(Ⅲ)⑨

旧龍雲寺

 安政4年に函館奉行の命を受け、北海道開拓に功績を残した幕臣:荒井金助は永代墳墓の地を札幌の篠路とし、この地に長子芳太郎を居住させました。

 芳太郎の死没後、未亡人佐藤夏子は自邸を寺とし、この寺が後の浄土宗龍雲寺となります。

正面入口の向拝部分は大正年間に増築されたものです。

 

旧所在地:札幌市北区篠路町篠路

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 北海道開拓の村内

建設年度:1893年頃(明治26年)

面積:125.30㎡(37.90坪)

構造:木造平屋建

収集年:1984年(昭和59年)

復元年:1985年(昭和60年)

寄贈者:宗教法人 龍雲寺

北海道開拓の村 編(Ⅲ)⑩

森林鉄道機関庫

 北海道庁は1919年(大正8年)度から拓殖計画に国有林の直視伐採事業を加え、木材搬出のための森林鉄道の敷設に着手しました。

 その後、道内各地で建設が進められ、昭和初期には従来の流送にかわって鉄道運材が主流になり、機関車や貨車のほか機関庫・貯木場も整備されていきました。(説明板の通り)

 

現所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 北海道開拓の村内

建設年度:大正後期

面積:99.15㎡(23.99坪)

構造:木造平屋建

再現年:1990年(平成2年)

その他:大正後期に置戸町に建てられた機関庫の写真や資料を参考に再現した