建築を旅してplus

道南 編 ①

旧笹浪家住宅 ─ 上ノ国町

 旧笹浪家住宅の資料によりますと、この住宅の主屋は、1838年(天保9年)に没した能登屋笹浪家の五代目:九右衛門が建てたと伝えられます。 

 1857年(安政4年)に土台替え、翌年には屋根の葺替を行なったとの記録も残っていることから、9世紀前半に建てられた現存する北海道の民家では最古のものであることがわかります。代々鰊漁などで繁栄した上ノ国随一の旧家でした。

 

 さて、建物に目を転じましょう。 

 主屋は低い軒の切妻平入り(建物の長手方向に入口がある形式を平入りという)、ヒバ柾葺屋根の上に多数の石を置いている石置屋根が特徴的です。

 昭和30年代まで主屋の表通りに建ち並ぶ民家の大半が石置屋根だったといいます。柾葺は強風で飛んでしまいますからね。 

 内部に入ります。玄関を入ると、中央が通り庭になっています。左側にミセ、さらにザンギと呼ばれる接客空間があり、右側が使用人室になっています。

 奥に進みますとイロリの切られたイタマがあり、この部分には天井がなくて、見事な大梁が剥き出しになっています。

 今も日本海に残る鰊番屋の原型になっているということでしたが、平入りは留萌の佐賀家漁場(後日、道北編にUP予定です)と同じですね。

 隣接して、土蔵に米・文庫蔵、近隣には上ノ国八幡宮や上國寺が建っています。

 

建築:19世紀前半

構造・規模 :木造平屋(2階建)

所在地:檜山郡上ノ国町上ノ国236番地

指定等 :重要文化財

道南 編 ②

梅村庭園 ─ 八雲町

 父親が旧尾張藩士であった二代目梅村多十郎氏は、愛知県東春日井郡和繭良村から北海道開拓のために、1827年(明治25年)八雲村へと移住し、農業に従事していました。 

 その後、馬鈴薯澱粉製造や菓子製造業、造林業を営み、さらに、1912年(明治45年)には、現在の場所に蔵、離れ、洋館からなる住宅を建設します。(洋館は現存しない)ほぼ同時に近隣の石や樹木を利用して造園にとりかかります。

 大正12年頃には造園師の野中松太郎氏の手が加えられ、完成したのは18年後の1930年(昭和5年)といわれています。  

 

 蔵は石造2階建、切妻瓦葺で庭園を望む窓が設けられ、離れは入母屋造りで内部が数奇屋風です。庭園は1年中、枯れることのない池泉回遊式庭園で、鯉が放流されている池の廻りには築山や枯山水、灯篭などが、巧みに配置されています。

 私は日本庭園をじっくり見るという経験がありませんでしたが、さすが、18年もかけただけのことはあり、見事な造形美です。

 それほど広い面積ではないにもかかわらず、空間に奥行きが感じられました。

 

建築:1912年(明治45年)

構造・規模 :木造2階建(離れ座敷)、石造2階建(蔵)

所在地:八雲町末広町151番地

指定等 : 町指定文化財、北の造園遺産(造園学会北海道支部)

道南 編 ③

旧湯里小学校 (湯ノ里デスク) ─ 蘭越町

 旧湯里小学校を遡ります。 

 明治40年に湯山別特別教授場として開校しました。昭和22年に湯里小学校と改称、1957年(昭和32年)には、この補強鉄筋コンクリートブロック造平家のかわいい建物が新築されています。

 しかし、残念ながら、2002年(平成14年)3月に閉校となりました。

 同年8月には、田代信太郎さんと佐々木武さんが共同代表を務める「湯ノ里デスク」としてスタートします。 田代さんも佐々木さんも、共に東京生まれ、首都圏で会社勤めをしていましたが、北海道の自然に憧れて東川町の家具メーカーで働き、そこがお二人の出会の場となります。

 気のあった二人が活動の拠点に選んだのが、ニセコ山麓の麓にある旧湯里小学校でした。

 廃校となった校舎・体育館を再利用し、工房とショールームで構成がされています。

 ショールームを見渡しますと、洗練された木工品が多数置いてあり、時間を忘れてしまう程、わくわく感がありましたね。私は木工品小物が気に入り、購入させていただきました。

 ショールームを見渡すと、東川町の家具メーカーでの写真が飾ってありました。「あっ、これは北の住まい設計社ですね」と言うと「何でわかったんですか」と不思議そうに訪ねてきました。※北の住まい設計社については道北編②を参照してください。

 たぶん、「北の住まい設計社」のコンセプトに感化されたんだろうなぁ~という印象を持ちましたね。黙々と仕事をされているお二人の生活スタイルに憧れます。

 

建築:1957年(昭和32年)

構造・規模 :補強鉄筋コンクリートブロック造平家

所在地:磯谷郡蘭越町湯里131

道南 編 ④

上ノ國八幡宮 ─ 上ノ国町

 15世紀頃、北海道は南半分の日本海側を上ノ国、太平洋側を下の国と称されていました。

 上ノ国は北海道発祥の地とされています。

 

 上ノ國八幡宮は1473年(文明5年)松前藩始祖の武田信廣公が勝山館(上ノ国にあった中世の山城)に守護神として創立したと言い伝えられています。

 社殿の奥に祀られている本殿は1770年(明和7年)創立で北海道内最古の社寺建造物といわれていますが、一般公開されていないため、拝見することはできませんでした。

 

 さて、旧笹浪家を左手に見て、鳥居をくぐると、福井特産笏谷石製の狛犬が両側に置かれ、さらに奥には、この上ノ國八幡宮の拝殿があります。

 この建物は1876年(明治9年)に江差町正覚寺の旧金毘羅堂を転用したものですが、唐破風の下に施された龍彫刻が見事です。その他、向拝虹梁や繋虹梁にも美しい彫刻が施されています。

 

建築:本殿は1770年(明和7年) 拝殿は1876年(明治9年)とされる

構造・規模 :本殿は一間社流造、柿葺、

       拝殿は正面3間、側面4間、入母屋造、向拝1間、桟瓦葺 外壁下見板張り。

所在地:上ノ国町字上ノ国238

指定等:北海道指定有形文化財

道南 編 ⑤

灯台の聖母トラピスト大修道院

 この建物は、静寂で牧歌的な風景が連なる北斗市三ツ石の高台、ポプラ並木の正面に建つ厳律シトー会(トラピスト会)の修道院であり、日本最初の男子トラピスト修道院として知られています。

 明治29年にフランスのメルレー修道院の子院、ブリックベック修道院の9人の修道士によって、仮修道院が建てられました。初代院長ジェラール・ブーリェ師は、のちに帰化して「岡田普理衛」と名乗っています。

 

 同29年に竣工した白ペンキ塗りの木造修道院は明治36年に焼失してしまいますが、5年後の明治41年に現本館が建設されます。

 急勾配の屋根、トレーサリー(飾り格子)の付く尖塔アーチの開口部や正面入口がゴシック様式の特徴を示しています。

 なお、設計者であるJ.J.スワガーは、同じチェコ出身の建築家:アントニン・レーモンド(札幌市編②札幌聖ミカエル教会参照)が東京聖ロカ病院の設計に際して、呼び寄せた構造設計家でした。その後、横浜市中区山手町に建築事務所を構え、大正・昭和と日本で活躍します。横浜のカトリック山手教会などの作品が現存しています。

 そのような関係から、この建物の建設には施工者ばかりか内部造作材も横浜で集められたといいますが、煉瓦については函館の煉瓦工場製が使われています。

 

竣工 - 1908年(昭和47年) 

構造・規模 - 煉瓦造地上3階建地下1階建 2790㎡

所在地 - 北斗市三ツ石392

設計者 - J、J、スワガー

施工:不詳

道南 編 ⑥

上國寺 ─ 上ノ国町

 上国寺は1443年(嘉吉3年)の開基と伝えられる北海道有数の古刹です。

本堂については、従来、寛永20年(1643年)の遺構であるとする説もありましたが、本堂調査の際に天井裏から見つかった板切から推して、宝暦8年(1758)に建立されたものと考えられています。

 本堂の特徴としては、北海道の気候上の制約から、縁を外に廻さず、内部に廊下を配する形式となっていることから、横への広がりよりも立ちの高さが強調される外観になっています。

 なお、この写真は2005年時のものです。

 

竣工 : 1758年(宝暦八年)頃 

構造・規模 : 木造平屋建て、桁行11.3m、梁間13.1m、一重、入母屋造、向拝一間、

所在地 : 北海道檜山郡上ノ国町字勝山416

受賞歴・指定等 : 国指定重要文化財

道南 編 ⑦

ニッカウヰスキー北海道工場─余市町

 ニッカウヰスキーの創業地である竹鶴政孝がウイスキーづくりの理想の地を求め、スコットランドに似た気候風土を備えていた余市に蒸溜所を建設しました。

 なお、竹鶴政孝は大正年間、スコットランドに留学しています。

 

 余市駅から西側へ徒歩2~3分の位置に13.2万㎡の広大な工場敷地があり、大小併せて50以上の石造上屋群が、この敷地を囲って建っています。

 特徴的なのは、何と言っても赤い三角屋根の石造建築群です。ヨーロッパに来たような錯覚を覚えますね。

 「旧事務所」「事務所棟」「蒸溜棟」「貯蔵棟」「リキュール工場」「第一乾燥塔」「第ニ乾燥塔」「研究室・居宅」「第一貯蔵庫」「第二貯蔵庫」の10建造物が重要文化財の指定になっています。

 

竣工:1942年(昭和17年)

構造・規模:木骨石造平屋

所在地:余市町黒川町7―6

受賞歴・指定等 : 登録有形文化財(建造物)

旧名称:大日本果汁(株) 余市工場正門・事務所・旧ブドウ工場棟