建築を旅してplus

栗山町 編 ①

旧雨煙別小学校 ─ 雨煙別小学校コカコーラ環境ハウス

 雨煙別小学校の元をたどれば、現在の旧雨煙別小学校の場所に、真宗興正寺派の僧侶が仮小屋を建て、子どもたちに布教の傍ら、読書習字を教えていたとあります。

 その後、雨煙別尋常小学校の開校を経て、1936年(昭和11年)には、この雨煙別小学校が新築されます。

 普通教室が7教室、さらに、職員室、作法室、唱歌室、湯飲場、工具室、石炭庫などを備えた当時としては、たいへんに近代的な2階建ての木造校舎で、総勢386名の生徒が学んでいたといいます。

 しかし、少子化など、時代の流れもあり、1998年(平成10年)には、3,082人の卒業生を世に送り出した98年の歴史に幕を閉じ、惜しまれつつも閉校と相成りました。

 この後、平成19年までに何ら活用の動きもなく、当時の写真などを見ますと、施設はかなり、廃墟化していたようです。

 しかし、平成20年、事態は動きます。建物の再生を目指し、NPO法人雨煙別学校が設立されました。さらに、公益財団法人コカ・コーラ教育・環境財団の支援を受けることなどから、栗山町の豊かな自然環境の中で、自然教育プログラムを展開し、次世代育成を目指す、宿泊可能な施設へとリノベーションされることとなりました。 

 

 現在は、自然体験や、屋内制作体験など、仲間達との交流も体験できるといいます。

 財団は体験型環境教育の拠点を探していたといいますし、もともと栗山町は、国蝶オオムラサキの発見を機に自然保護活動に積極的に取り組んできたまちですから、お互いの意向や活動が合致したのでしょう。

 ほとんど飛び込み同然でこの建物を訪れました。

 外回りの写真を撮ることを了解願おうかとNPO法人雨煙別学校のスタッフにお話をしたところ、お仕事中にも係らず、各部屋を案内いただいた上に、詳しい説明まで受けることができました。

 減築や開口部の閉鎖など、建築基準法や消防法に適応させることが大変だったと聞きますが、その苦心の成果を美しい姿で見せているのは見事です。

 この栗山町というまち、どの施設に行っても親切丁寧に対応してくれますので、とてもいい旅だったと感じさせてくれますね。

 特出すべきは、延で1,500人程の住民がこのリノベーションにボランティア参加したということです。

 建築や空間づくりは、計画・設計の過程に参加することで、出来上がったものが参加者のものと感じられ、その後の利用・維持・成長にとって大きな意味を持つといいますから、すでに住民みんなの施設だといった感覚になっているんでしょうね。

 この住民参加は、一過性のイベントや形式的な枠組に限定されるものではなく、今後とも知恵を活かしながら、続いていくことだろうと思いますが、お手本となる参加のデザインを期待しています。

 この興味深いさまざまな仕掛け満載のリノベーションをプロデュースしたのが象設計集団、さらに旧小熊邸倶楽部もかかわったと聞いて納得です。

 

竣工 - 1936年(昭和11年) 

構造・規模 - 木造2階建一部平屋

所在地 - 栗山町字雨煙別1番地4

設計者 - 2009年(平成21年)リノベーション時点 : 象設計集団

栗山町 編 ②

旧泉麟太郎邸 ─ 泉記念館

 この建物は、もともと、1998年(明治31年)に泉麟太郎の自邸として、建てられた木造平屋建ての家屋です。

 泉麟太郎は、宮城県の旧仙台藩角田領主であった石川邦光の家臣でした。

 石川邦光が室蘭郡(現在の室蘭市にあたる)支配を命ぜられると、1870年(明治3年)、角田から51名の移民団を引き連れて室蘭に入地しますが、土地に限りがあったことから、さらに開墾に適した土地を求め、この栗山町(当時は郷里にあやかり、角田村と呼んだ)へと同士7戸24人と共に、入植しました。

 その後、水田耕作に成功を納め、栗山町の開墾の礎を築いた開拓創始者であり、後の北海道農業の動向にも大きな影響を与えたといいます。 

 さらに、泉は角田村総代や角田村長、角田村土功組合長、角田村農業会長、北海道議会議員をつとめた人物で、北海道の開拓功労者、藍綬褒章も授与しています。  

 

 さて、この建物、内部は一部改修され、昭和50年までは曾孫の泉勝文氏が生活していましたが、昭和51年に町は、家屋の寄贈を受け、昭和53年、開基90周年事業として、この栗山町発祥の地である現地(開拓記念館の隣地)に修復され、昭和54年からは、広く一般に公開されています。 

 北海道には珍しい茅葺屋根ですが、この修復資金は、募金活動によるものだといいます。

 平成15年10月には青森県の茅葺師6名を呼び、全面葺き替えを行うと共に土台の改修も行っています。  

 平面は長方形で、桁行13.5m程度、梁間9m程度、3面の軒は出桁造り【※1】になっており、奥行きを深く見せています。

 また、全体としては、当時の本州の農家風の建物ですが、上げ下げ窓も2ヶ所設け、洋風要素とも折衷させた面白いデザインになっています。

 内部には、板敷きの広い茶の間と、3畳程の帳場、さらに10畳と6畳の和室が2室ずつ設けられており、角田藩や泉麟太郎に関する資料が展示されています。

 隣の開拓記念館の職員さんには丁寧な対応をいただき、感謝です。

【※1】出桁造り(だしけたづくり)梁(腕木)を柱の外に突出して、出桁を乗せ、その上に垂木(たるき)を架けて屋根を支える軒の造り。江戸時代からあった意匠で、重厚な外観を演出している。

 

竣工 - 1898年(明治31年) 

構造・規模 - 木造平屋 寄棟茅葺屋根 延床面積約129㎡

所在地 - 栗山町角田61

受賞歴・指定等 - 栗山町有形文化財 

栗山町 編 ③

小林酒造

 1878年(明治11年)創業の小林酒造は、おいしい水と米を求めて、1891年(明治34年)に札幌から栗山に工場移転した「北の錦」で有名な酒造メーカーです。この名称からは「北の地で錦を飾る」という初代、小林米三郎の意気込みが伝わってきます。

 

 さて、全体を見渡しますと、夕張川に隣接する33,000㎡の敷地に煉瓦や札幌軟石で造られた趣きある蔵が18棟も群を成しており、その内、13棟が国の登録有形文化財に指定されています。

 個々の建物を見てみます。まずは1901年(明治34年)建築、木造2階建の本宅です。 

 玄関部分は入母屋でミセ部分は切妻、一部増築部分はあるものの、内観、外観共、当時の状態が保存されているといいます。 内部は残念ながら見ることができませんでした。

 煉瓦造の2、3番庫は1935年(大正10年)、3つの石倉である4~6番庫は1900年(明治33年)、煉瓦の製麹室は1936年(昭和11年)に建築されています。 

 さらに、1944年(昭和19年)建築の北の錦記念館(事務所棟)は、鉄筋コンクリート2階建て、2階中央に4連アーチ窓、独立円柱でダイナミックに支えられた梁、落ち着いた色合いに施されたタイルなどによるモダン建築です。 

 これらが、一体となった空間が構成されており、その歴史性が物語られています。 

 なお、煉瓦積みは、当時の職人さんたちによる、手造りだったそうです。 

 どのような理由や目的で手造りとなったのかは不明ですが、一般的に、建築や空間づくりはユーザーとなる人が、計画・設計・施工の過程に参加することで、出来上がったものが自身のものと感じられ、その後の利用・維持・成長にとって大きな意味を持つことになります。

 やはり、DIYやセルフビルドって魅力ですね。 

 このような精神は、当然、酒づくりにも反映されています。 

 道産米で仕込み、地元で消費する。さらに、道内の酒造メーカーのほとんどが、南部杜氏を迎える中、道産子杜氏にこだわる頑な姿勢は、百年蔵の存続とも連動しているのだと感じています。 

 私は、これらの建物について、あまり情報を持たずに訪れたのですが、これだけ多くの施設がよくも今日まで保存されてきたもんだなぁ~というのが、第一印象でした。  

 久しぶりに、時間の止まったような空間を満喫させてもらい、とても満足です。 

 映画のロケ地にもなっているせいか、観光客が思った以上に訪れています。 

 団体であれば、予約の上、酒蔵見学も可能だそうです。 

 いくつかの資料館にショップやレストラン、さらに手作りガーデンもあり、家族でも、充分に楽しめる空間になっています。

 

竣工 - 1891年(明治34年) 

構造・規模 - 煉瓦造 鉄筋コンクリート造 木造

所在地 - 夕張郡栗山町錦3丁目109

受賞歴・指定等 - 国の登録有形文化財